●設立趣意書 1984.04.01
■創立の趣意書■
1984年4月1日 自由の森学園設立委員会 代表 遠藤 豊
いま、混迷を極めている日本の教育情況の中で、私たちがあえて人間の自立と自由への教育を追求する新しい学園を創設しようとするのは、人間性の本質に深く根ざした人間の教育をひらく典型的な学校を、この地上に現出させることを強く決意したからです。
かけがいのない個の人間として、それぞれ異質で多様な可能性を潜ませていながら、いまの画一的な教育の中で萎えてしまっている若者たちの秀れた資質をひきだし、想像力を解放し、心の自由を育てる、そうした教育をつくりだすことを決意したからです。
学校教育の荒廃が叫ばれてから久しいのですが、日本の学校をおそっている狂気の現象は、いっこうに改善される徴候をみせていません。
授業にならない教室、集団の病理ともいうべき`いじめ、の問題、増加している登校拒否、頻発する校内暴力やいわゆる非行、そして、いたましい子どもの自殺など、いちいち例証をあげるまでもなく、いまや学校には教育の名に値する教育がなくなっているといっても過言ではないくらいです。
しかも、こうしたできごとは、いわば、氷山の一角ともいうべきものです。
重要なのは、その水面下で学校教育の破局的状況が進行し、若者たちや親や教師の不幸が深くなっていることです。
テストの点取りや偏差値アップのために、規格化されたできあいの知識を伝達し、堆積させ、それをすばやくまちがいなく再生するテープレコーダーのような能力の養成をめざす教育は、授業を底の浅い質の悪いものし、生徒を受け身にし、自由な思索や実験精神や想像力を枯渇させています。
生徒がさまざまな出会いを体験し、自らの内なる現実とかかわったしかたで知識や技術を深く学ぶこと、高い表現をつくりだすこと、そして、新しい視野を開く楽しさ、自分を発見することの喜び、などを感じとることを不可能にしています。
そればかりではありません。
こうした外発と強制を手段とする画一的な教育の体制を破綻させないために、学校は生徒の生活のいちいちを校則によって規制し、管理を強化するという方法をとらざるをえなくなってきています。
恐ろしく思うのは、このような対応が今の事態を改善するうえで効果のないことをみると、こんどは、力の対決という構図になってきていることです。
すでに、学校ファシズムという言葉はすっかり定着してしまい、多くの学校に全体主義的な傾向を強める風景があらわれてきています。
そして、規則づくめのまるごとの生活規制がつくる閉塞感、抑圧感が、学校や教師への不信憎悪を増大させているのです。
いま、日本の学校がおちこんでしまっているこのような荒涼たる退廃には、いくつかの要因が重なりあっています。
しかし、最も根本の要因は、中学校あるいは高等学校までに身につけるべき一定量、一定範囲の知識・技術を外在的に固定化し、教師は授業でそれを伝達し、テストの点数や偏差値などの一元的な価値基準で生徒を優劣に序列化し選別していく、そういう能力主義の教育に、いまの学校が完全に制圧されてしまっていることにあります。
経済の高度成長に伴う生活様式の変化が、親を、生徒を、こうした単色の価値観のとりこにしていったという事情も、これと深くかかわっていることはたしかです。
そうした能力主義・管理主義の教育体制の檻の中で、若者たちのしなやかな感性、想像や創造の力、そして興味や個性がおし潰され、閉塞状況に追いこまれ、学校は活性を失っているのです。
しかし、ここで考えなければならないことがあります。
それは、若者たちの想像や創造の力を衰弱させ、夢をうちこわし、志を失わせて、とめどない荒廃に拍車をかけている画一的で外発的な強制の教育は、たんに国家や行政が一方的に押しつけたものとはいいきれないことです。
そうした能力主義・管理主義の教育を推進した中に、私たち教師自身、そしてそれを求める親自身もいたのです。
私たち大人の精神構造の中に、しっかりと根をおろしてしまっている「点数信仰」、「成績万能」の思想(妄想)は歴史的なものです。
それは明治以来、一度もその破綻が顕在化することなく、私たち日本人の精神構造の中に深くもぐり、しっかりと根をおろして強いものになってきています。
そうした内なる能力主義の教育思想が、生徒を「物化」し、操作対象にするかえることで成り立つ画一的な人間疎外の教育をおしすすめる役割を果たしてきたのです。
いま、こうした日本の教育状況のなかで、私たちが、これまでとはちがった新しい学校を創るという困難なしごとに踏みきったのは、こうした学校教育のありようを根底からとらえなおし、人間の本性に深く根ざした人間の教育をひらく学校を、この地上に現出させたいと希うからです。
人間の子の人間として底知れない可能性をはらんでいる未成熟な子どもや、かけがえのない人生のいまを生きる若者たちが、人間として自らを生きるために欠くことのできない営みとしての教育、そうした教育から若者たちを遠ざけて、点とり競争と選別の機関になりさがっているいまの学校教育のありよう。
かけがえのない個の人間として、それぞれ異質で多様な可能性を潜ませている若者たち、その若者の夢をうちこわし、早い時期に自分をあきらめさせ、規格化した知識の量を競わせて、想像力を枯渇させてしまっている教育のありよう。
このような学校教育のありようを根底から変えて、ひとりひとりの若者たちが、ほんものの知識を形成的な方法で深く学びとり、高い表現つくりだし、想像力を豊かにして、自立的な自由への意志を育てる教育を創る、そういう学校を誕生させることを強く決意したからです。
そして、それが学校教育における子どもの不幸を救い、日本の学校教育に人間性、全体性をとりもどす契機になり、土台になることを希っているのです。
ですから、こうした教育の展開は、既存の学校教育を貫く価値や支配原理を変えていったり、ちがった原理を対置したりして、改めてその緊張関係や二重性について視野をひろげていくことになるでしょう。
これまでの学校教育は、何よりも効率性を軸とし、合理性や客観性、数量化、あるいは速さや正答主義、教授方法の限りないシステム化などを支配原理として展開されてきました。
それが固い組織になってしまって、画一化し、硬直化して人間疎外を進行させているのです。
こうした学校教育の画一化・硬直化を超えて、自由な発想や創造性をとりもどしていくには、効率性や速さや正答主義といった原理には、ゆっくりと待つことや誤答や試行錯誤のもつ価値を、点数や記号による計量化には
文章による記述やプロフィル的な把握を、合理性や客観性にはファンタジーや想像性や即興性を、教授方法の規格化には教師の個性的な力量を、また固定化した知識の量やその蓄積に対する盲信には、体験や実在から
の出発と生徒自身の思考による知識の形成と深い認識を、そして、能力や適性には願望や可能性という価値を対置したり、これらの二重性や緊張関係について視野をひろげていくことが必要だととらえているのです。
それは、もともと教育というしごとが人間と人間との関係性によって成り立つものだからです。
そうしたとりくみが、生徒と教師が共に深く学ぶ授業を創り、ものをつくる、育てる、他者にはたらきかけるなど等身大の体験と豊かな人間的ふれあいの場をつくり、開かせた、せいいっぱいに学ぶ場としての学校をつくりだしていきます。
このような開かれた学校のなかで、生徒たちが、教師と出会い、作品と出会い、他者と出会い、自らを問いなおし、新しい視野を開き、自己を発見し、自立した自由へのはっきりとした意志をもつように成長していく。
私共は、自由の森学園の創設に、そうした新しい教育の誕生をかけているのです。
それが憲法26条の主文「すべて国民は、・・・その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する」とうたわれている、国民の教育を受ける権利にこたえる営みとしての学校教育の実質をつくることであるといってもよいでしょう。
ですから新しい学園は、さし当たり、まず中学校・高等学校を設け、そこで6ヶ年の一貫教育を行うことにしていますが、近い将来に小学校を設け、大学を設けることも構想にいれています。
ともあれ、人間の本性に根ざし、二十一世紀という人類がかって経験しなかったような新しい状況に直面して生きる若者たちを育てる教育の出現は、いま心ある親なら誰もが希っていることでしょう。
そして、それは私立学校として自由な市民の手でつくりだされ発展させられるべきものだと考えるのです。
心ある多くの人の賛同と援助をお願いしたい。
=以上です=
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